砂浜、波、太陽、 これらの言葉を耳にしたとき、多くの人がバカンスをイメージするのではないのでしょうか。カム・デイビスや他のノースショアのライフガードにとって、それは時に悲惨な場面の背景となる可能性があります。伝説的な偉業に挑むためには、最高の体調と混沌の中で状況を見極める判断能力を海洋ライフガードが備えてなければなりません。しかしそれは体にとってのコンディショニングで、要件のほんの一部にすぎません。カムは常にそれを判断し、心が内なる静けさを受け入れるまで、肉体的に過酷な限界まで自分を追い込みます。
カムは海との繋がりが深く、厳しい海を知らないわけではありません。彼は島で育ち、海と自然に対する深い尊敬の念を先祖代々受け継いできました。子供の頃からサーフィンに慣れ親しみ、ライフガードでもあった祖父は、彼をロングボードに一緒に乗せて波の中で立たせていました。今ではカムが子供たちと行っている活動です。彼はライフガードとして16年間を過ごし、そのうちの13年間はサーファーたちが壮大な波を求めて集まるノースショアで過ごしました。
私たちは幸運にも2017年のS.E.A. JEANSの初めての大きなキャンペーンでカムと撮影をすることができました。その後も2023年春夏キャンペーンで再び彼と撮影をするチャンスがやってきました。
カムはOUTERKNOWN を体現しています。彼はどんな困難にも対応できるように日々努力しています。私たちは撮影後に彼と話す時間を作り、彼のルーツをもう少し深く掘り下げ、彼にとって最近の島での生活がどのようなものかを聞くことができました。
ハワイで育ったあなたは、ずっと海とつながってきましたか?
「そうだね。海の近くで育った人はみんなそうだと思うし、どこのビーチタウンでもそうだろうけど、島の僕らにとっては海に囲まれているから、なおさらだ。
フットボールをするもよし、ビジネスを持つもよし、弁護士になるもよし、いろいろなことができるけど、みんなに共通して変わらないのは、海とのつながりなんだ。」
ノースショア・ライフガードになろうと思ったきっかけは何ですか?
「子供の頃、尊敬していた叔父たちがいつも最高のコンディションで、いい人たちで、いつも海にいて、いつも笑顔だった。彼らはいつも幸せで、基本的にやることがすべてかっこよかった。中にはライフガードもいた。私の祖父もその一人だった。海について知っていることはすべて祖父が教えてくれたし、母が持っている知恵も母がすべて教えてくれた。だから、インスピレーションは家族から受けたんだ。私がライフガードを始めたとき、何人かの友達がトライアウトを受けていて、私はただコンディショニングとアジリティ・テストのためにやっていたようなものだった。ライフガードであることは一つのことだけど、ノースショアのライフガードであることは、最もリスペクトされている高い地位なんだ。オアフ島のすべてのステーションで4年間働いた後、私にはとても尊敬するガイ・ペリーという友人ができた。ガイはノースショアで勤務した後、港湾労働者になったんだけど、彼がノースショアを去るとき、船長が「このノースショアに来てほしい知り合いがいるか」と聞いたらしい。当時は評議員会があって、ここに来るには誰かが保証人になる必要があったんだ。そしてガイに信頼されていた私は指名され、翌日キャプテンから呼び出しを受けた。「ガイ・ペリーが君の名前を教えてくれたんだ。」自分の未熟さはわかっていたし、彼が残す穴を埋められるとは思っていなかった。ただ、この機会をいただけて光栄だったし、感謝でいっぱいだった。それが2009年のことで、それ以来、この5カ月を除いてはずっとそこにいた。
ノースショアで過ごしたとき、私が見たサーファーたちはみんないいサーファーで、イケメンで、態度がよくて、いつもハッピーで、人生にストークしていて、いつもフレンドリーで、温かく迎えてくれた。その温かさこそが、アロハの最大の定義のひとつなんだ。」
ノースショアにはもういないわけですが、現在は何をしているのですか?
「5カ月前からは通信センターに異動して、オアフ島のすべてのライフガードの緊急通報を統括している。ノースショアでの仕事から離れたが、いつでも戻ることができるし、おそらく戻るでしょう。離れた主な理由は子供との時間。ビーチでの仕事は、8時間労働が5日、状況によっては10時間や12時間労働もあった。特にノースショアでは、自然は常に変化し、予測不可能なものなんだ。昇進の話が2度あったんだけど、オフィスで働くライフガードにはなりたくなかったから断ったんだ。ビーチにいない初めての冬だ。ただ、この変化にチャレンジみたかっただけなんだ。スケジュールを調整することで、子供たちと一緒にいられる時間が増えたんだ。」
大きな波が押し寄せる危険な海岸線をパトロールしてきたわけですが、その経験について教えてください。
「ライフガードとして、知識を人々にシェアすることで命を救われている。いつも "何人の命を救ったんですか?"とか "今日は誰かを救いましたか?"と聞かれる。でも私の記憶に残っている救助は、失われた命か、戻ってこなかった遺体のことだけです。よく覚えているのは一人の女性の出来事。何度か海の状況について説明し、気を付けることを話したはずだ。違うエリアのパトロールにまわっていたら、救助のアラームが鳴った。"あぁ、さっき話した女性じゃないことを祈る "とすぐに思ったが、案の定、その女性だった。救助に向かうものの、タイミングがとても重要。セットが入ってくるのが見えたから、準備はできていたし、頭の中でカウントダウンしていた。でも間に合わなかった。彼女の3メートル以内に近づいて、"できるだけ長く息を止めるんだ "って言わなきゃいけなかった。彼女が私の話を聞いていたかどうかはわからない。もちろん、彼女は悲鳴を上げ、パニックになり、もがいていた。私たちはやっとの思いで彼女のところまで行き、スキーのソリの後ろに彼女を乗せて、ビーチまでガンガン走った。悲しかったのは、彼女の3人の子供と夫がそこで待っていたことだ。彼女の息子さんが、彼女がおぼれていることを私たちに知らせるために旗を振ってくれたのだ。私はその日、海岸でこの女性とその家族に4回話しかけた。最初の2回は教育のため。次の2回目は、海に近づき過ぎないこと、海は予測不可能であることを伝えた。彼女はそれを受け流した。「ええ、心配しないで。ああ、わかってる。」 残念なことではあるが、そういうことはよくある。
母なる自然は差別をしない。彼女はあなたが何をしようと、あなたがここにどれだけの長くいようと、あなたが億万長者であろうと、全く気にしない。自然には逆らえないんだ。」
サメとのダイビングのご経験もあるようですが、それについて教えてください。
「親友のカイウイ・ベリーは息子の名付け親でもあるんだけど、ハレイワでアイランド・ビュー・ハワイというケージなしのサメとのダイビングツアーをやってるんだ。カイウイとは、彼が会社を立ち上げたときから一緒に働いている。でも、コロナ以来、あまり戻っていないんだ。今は2人の子供がいるし、日々の生活もあるから、船に戻る機会がなかったんだ。でも、"やあ、今日は何してるんだい、飛び乗りたいよ "と思うことはある。心をスッキリさせるいい方法なんだ。ハワイで育った僕らにとっては、「オウマクア」は家族を象徴する動物という意味なんだ。家族ごとに違うアウマクアを持っていて、スピリットアニマルみたいなものだね。サメもその動物のひとつ。だから私たちのサメに対する考え方やサメを見る目も違う。尊敬の念がある。自分が恐怖心を抱いたらサメにもその気持ちが伝わり、危険な状況になりかねない。なので、落ち着いて、尊敬の念をもって接する。大きな魚と一緒に泳ぐのはとても楽しいよ。
僕らにとっては、海を愛し、海に感謝し、海を敬うということは、生き方に密接している。」
ライフガードの仕事をリタイアした後は、どんな生活を送るのでしょうか?
「大学時代、展示会や工事現場の足場を組む人の下で働いていた。全米を回って足場を組むチームの一員だったんだ。ある仕事で、モデルの一人が飛行機に乗り遅れて、彼はショーに出られなくなった。そこで、私がどんな風に映るかを確認するために、壁に向かって立つように言われ、小さな顔写真のようなものを撮られた。それから、時々、いつもではないけど、モデルをやりはじめたんだ。自分がモデルだとは思っていなかったから、ちょっと興味深かった。今とは少し違うと思うけど、当時はみんなモデルになりたがっていた。私は足場を組むだけの汚い大工だったけど、歳をとってわかった......裏方の仕事も好き。撮影現場のあらゆる仕事を学んできたし、そういう環境に身を置くことが本当に好きなんだ。ライフガード以外のことでも、幸運にもそういうことができた。アウターノウンのジョン・ムーアやマイク・ハーマンからタレントの仕事を依頼されるようなことがあれば、どちらにしても嬉しい。彼らのためにできることならいつでも駆けつけたい!」
あなたのスタイルを一言で表すと?
「型破り、シンプル。スタイル的にはいろいろなものに興味がある。いろんな場所に行ったけど、どこに行っても、いろんな人、いろんな言語、いろんな食べ物、いろんな国に囲まれて、すべてを吸収してきた。自分を定義するルックやインスピレーションは今までの経験で培ってきたもの。それはムードであり、ジャンルであり、ヴァイブという言葉は使いたくないけど、そう......ヴァイブなんだ。」
ロールモデルはいますか?
「私の幼少期のロールモデルは、祖父だった。母の父であり、私の親友のような存在だった。そして今、親になって、母や祖父の姿を見てきたことが、自分の中にもたくさんあるんだ。祖父は私が15歳のときに亡くなった。祖父が私に見せてくれたサーフィンは、私が子供たちに見せているのと同じ方法で、タンデムサーフィンだった。祖父は私をロングボードに乗せてくれた。祖父は波をキャッチして私を立たせるんだけど、祖父が普段サーフィンをするのと同じように、私にサーフィンを見せてくれたんだ。そしてそれは、私が娘とサーフィンするときも意識していること。娘はサーフィンが大好きだから、本当にうれしいよ。息子はビーチで穴を掘ってスロープを作り、モンスタートラックを走らせる。それもそれで全然良い。娘には海を愛してもらいたいし、いい経験をしてもらいたい。特に深く考えているわけではないけど、祖父に教わったうようにサーフィンの魅力をを彼女にシェアしていきたい。」
特に思い入れのある活動はありますか?
「自閉症の子供たちをサーフィンに連れて行く非営利財団に参加している。サーファーズ・ヒーリングという団体で、子供ができる前は、年に数回一緒に旅行していた。最初はイスラエル・パスコヴィッツが自閉症の子供たちをサーフィンに連れて行ったのが始まりで、そのおかげで私は自分が行くことになるとは思ってもみなかったたくさんの場所に行くことができた。私たちはさまざまな地域でツアーを行い、子どもたちがあちこちから集まってきて、3~5本の波で15~20分ほど私たちと一緒にサーフィンをする。子供たちと興奮を共有し、経験を共有することができるんだ。私は自閉症やスペクトラムの違いについて本を読み、学んできた。毎年、サーファーズ・ヒーリングのことを知り、地元だけでなく、いろんな場所から参加する子供たちが増えた。私たちは彼らに影響を与えているが、彼らも私たちにも大きな影響を与えてくれている。 活動の中で生まれるつながり、恩返しができることは、素晴らしいことだ。子供たちもこのことを覚えてくれていて、親たちは、"うちの子はサンタクロースよりもあなたに会うのを楽しみにしている "と言う。とても嬉しいことだよ。」
日常生活で環境への影響をどのように減らしていますか?
「いつも使い捨てのものを最小限にするよう心がけている。私はガラスや竹のストローをよく使う。ちょっとしたことなんだけどね。リサイクルとリユースは自然に生活のなかに浸透してきているし、今ではペットボトルから作られたものが再利用されていたりと、とにかく自分でできることは習慣化していきたい。」
ケリー・スレーターのAPEX TRUNKSも再利用した原料を使ってますね!
「そうだ、ジョンに連絡して、トランクスをもらえるか聞いてみよう笑。」